カテゴリー: コラム

  • たぶん買う、U16ZA

    最近、サブモニターがもう一枚ほしいなと思って調べていたら、Intehillの「U16ZA」というモバイルモニターに行き当たった。16インチで3K解像度、16:10の比率。数字を並べると堅苦しいけれど、要はノートPCと並べても違和感のないサイズ感で、しかも作業スペースが広がるというわけだ。

    評判も悪くない。むしろかなりいい。モバイルモニターというと、どうしても「画質はそこそこ、利便性でカバー」という印象が強かったのだけれど、この機種は色域や輝度も十分らしく、ふだん使いどころか映像鑑賞にも耐えるらしい。アルミ合金の筐体もすっきりしていて、ベゼルも細い。机に置けば、余計な主張をせずに馴染んでくれそうだ。

    私は外に持ち出すことはあまり考えていない。カフェで作業、というのはちょっと似合わない性分だし、ほとんどは自宅デスクに置きっぱなしになるだろう。けれど、背面にVESAマウントがあるので、気が向けばアームに取り付けてレイアウトを変えることもできる。自由度が高いのはありがたい。

    もちろん「絶対に買う」と決め打ちするほどではない。モバイルモニターにしては安くはないし、これまでなんとか一枚の画面でやりくりしてきたのだから、必需品かと言われるとそうでもない。ただ、こうしてあれこれスペックを眺めているうちに、気持ちはかなり傾いてきている。

    おそらく、近いうちに「たぶん」が取れて「買いました」と報告することになるのだろう。

  • 久しぶりに本を買ってみたら

    先日「サブスクに慣れて小説が遠のいた」という話を書いた。映画やドラマを一気見できる便利さと、作品単価の安さに慣れてしまったせいで、小説を手に取る回数がめっきり減った、というあれだ。

    でもその直後、なんだか自分でも妙に気になってしまって、久しぶりに本屋へ足を運んだ。そして思い切って、前から気になっていた作家の新作を買ってみた。単行本だから値段はサブスク1〜2ヶ月分。それでもレジで本を受け取ると、なんだかちょっと誇らしいような気分になった。

    久しぶりに紙のページをめくりながら読むと、やっぱり小説には小説にしかない時間があると感じた。映像作品みたいにテンポよく進まないからこそ、ふとした一文に引っかかって立ち止まれる。余白に自分の想像を差し込める。サブスクで次々と作品を消化しているときには味わえない「間」みたいなものが、そこにはあった。

    もちろん、コスパで考えたら勝ち目はない。たった一冊でサブスク数十本分の映像作品と張り合うなんて無理がある。でも読み終わったあと、静かに残る余韻や、自分の頭の中にだけ浮かんだ景色は、他では得られない。

    前回は「小説が遠のいた」としみじみ書いたけれど、今回買った一冊を読み終えてみて、距離を置いていたからこそ改めて「やっぱりいいな」と思えた。そんな再発見の一週間だった。

  • はじめてのソーセージづくり

    手作りソーセージキットというものを見つけて、軽い気持ちで試してみた。正直なところ、素人が作ったところで「まあそれなり」程度だろうと想像していた。けれど実際にできあがったものを口にしてみると、その予想は気持ちよく裏切られることになった。

    作りたてのソーセージは、市販のものとはまるで別物だった。ジューシーさが際立っていて、噛んだ瞬間に広がる肉の風味が驚くほど鮮やかだ。味そのものが格別なのはもちろん、そこに「自分で作った」という事実が重なることで、さらにおいしさが増して感じられる。

    工程自体は難しくはなかったけれど、肉をこねて詰めていく作業は想像以上に没頭できた。料理というより工作に近い感覚で、完成したときには小さな達成感があった。ソーセージというのはただの加工食品だと思っていたのに、手をかけるだけでこんなにも印象が変わるのかと感心してしまった。

    今回のようにまずはキットから始めるなら、ソーセージ以外でも意外と手作りできるものは多そうだ。ベーコンやチーズ、あるいはパンやクラッカーのように普段は買うのが当たり前のものも、作ってみれば「できたての特権」を味わえるのかもしれない。次はベーコンづくりに挑戦してみようかな――そんな気持ちが自然とわいてきた。

  • ホラーゲームが苦手な理由

    ホラーゲームが苦手だ、と言うと「怖がりなんだ」と思われがちだけど、実はそうじゃない。怖さにはそこまで抵抗がない。むしろ物語として楽しめるなら多少の恐怖演出は歓迎したい。問題は、画面が暗すぎることだ。

    たいていのホラーゲームは、雰囲気づくりのために全体的に照明が落とされている。お化け屋敷の演出と同じ理屈で、見えないからこそ怖いし、見えないからこそ緊張感が生まれる。でも、その「見えなさ」が単純に遊びづらい。通路なのか壁なのか判別がつきにくいし、アイテムも見つけにくい。映像表現としては正解でも、プレイ体験としてはストレスに感じてしまう。

    ホラーじゃないジャンルでも、暗いシーンが続くゲームは苦手だ。長時間プレイしていると目が疲れるし、ちょっと気を抜くと何が起きているのか見逃してしまう。結局「雰囲気」よりも「快適さ」を優先してしまう自分がいる。

    だからといって「明るくして遊べばいいじゃないか」と言われると、それも違う。画面を明るく補正した瞬間に雰囲気は台無しになってしまう。開発者が意図して設計した「怖さ」が消えてしまうわけだから、ある意味で作品に対する冒涜のようにも感じる。

    結局のところ、私にとってホラーゲームは「怖いから」ではなく「暗いから」苦手なのだ。ストーリーや世界観には惹かれるものがあるのに、プレイし続ける気力が続かない。少しもったいない気もするけれど、仕方がない。

    もし今後「暗さに頼らないホラーゲーム」が出てきたら、それはそれで新しい体験として楽しめるんじゃないかと密かに期待している。

  • コーヒーは減らしたいけど、やめたいわけじゃない

    コーヒーを飲む量を少しずつ減らして、今では1日1杯に落ち着いた。
    最初は「午後にもう1杯」とか「夜に小さいマグで」とか、つい手が伸びていたけれど、カフェインの摂りすぎを気にするようになってからは、意識して控えるようになった。

    ただ、禁煙や禁酒のような切実な理由があるわけじゃない。体調を崩したわけでもないし、強烈な依存を感じてるわけでもない。ただ「控えめにしたほうがいいかな」と思った程度だ。だから1日1杯から先は、なかなか減らす気にならない。

    というか、そもそもこれ以上減らす必要があるんだろうか。
    水分補給は水か麦茶ばかりで、緑茶やウーロン茶すらほとんど飲まない。トータルのカフェイン摂取量で見れば、むしろ平均より少ないくらいかもしれない。

    現実的な問題を挙げるなら、コーヒーがじわじわ高くなってきていることくらいだ。かつてコーヒー器具の世界に足を踏み入れかけたこともあって、「このまま沼に沈むのでは」と自分で自分を警戒した時期もある。けれど結局、気にしているのは「お金」や「ほどほど感」であって、コーヒーそのものをやめたいわけではない。

    だから「減らしたい」と言いながら、実際は「これくらいでちょうどいい」と思っているのかもしれない。
    結局のところ、1日1杯のコーヒーは、習慣でも嗜好でもなく、ちょっとした安心材料になっている気がする。

    やめなくてもいい、でもハマりすぎない。
    その曖昧さこそが、自分にとっての“ちょうどいい距離感”なのだろう。

  • 長時間ゲームより長時間イヤホンがすごい

    昔はゲームをやっていても、時間を忘れて朝まで平気で遊んでいた。
    でも今は1時間もすると目も耳も疲れて、集中力も切れてくる。長くて2時間が限界だ。

    だから配信者が平気な顔で3時間、6時間と遊んでいるのを見ると、まずは「体力あるなぁ」と感心していた。
    けれど、よくよく考えるともっとすごいのはそこじゃない。彼らはその間ずっとイヤホンをつけっぱなしなのだ。

    FPS系なら足音を聞き逃さないために密閉型のヘッドホンをきっちり装着しているし、RPGでもゲーム音が配信に載るようイヤホン必須。
    自分なら30分もしないうちに耳の内側が痛くなって外してしまう。音楽ならまだしも、ゲームの効果音って不思議と聞き疲れしやすいのだ。

    そんな姿を見ていると、思わず「耳が悪くなるよ」と心の中でつぶやいてしまう。
    直接言うことはないけれど、こういう心配の仕方をするようになった時点で、もう自分は“そういう年齢”に来ているんだろう。

    子供のころ、テレビの至近距離でゲームをしていたら、母親に「目が悪くなるよ」と叱られた。
    あのときの母の気持ちを、今はちょっとだけ理解している。

  • 家の前にコンビニができる

    家の目の前にコンビニができるらしい。
    ニュースになるほどの話ではないのに、個人的には事件級のインパクトがある。

    これまでだって歩いて10分圏内にスーパーがあったし、少し足をのばせばドラッグストアも揃っていた。生活に困るような環境ではなかった。けれど、やっぱりコンビニは別格だ。ちょっとした買い忘れ、夜中に小腹がすいたとき、急にコピー機が必要になったとき──そんな「今すぐ欲しい」に応えてくれるのは、スーパーでもネット通販でもなく、やっぱりコンビニだと思う。

    とはいえ目の前にできてしまうと、便利さ以上に「自堕落スイッチ」になる未来が簡単に想像できる。夜中にアイスを買いに行ったり、夕飯づくりをサボってついお弁当で済ませたり。財布にも健康にもやさしくないルートがすぐそこに用意されてしまうのは、どう考えても危険だ。

    それでも、なんだかんだ嬉しいのが正直なところだ。玄関を出て数十歩の距離に灯りがともり、人が出入りする場所ができる。暮らしの半径がちょっとだけ広がる気がする。

    インドア生活に拍車がかかるかもしれないし、堕落の入口にもなりそうだけど、それも含めて「目の前にコンビニがある」というのは悪くない。

  • 配線整理は「ゆるさ」で決まる

    デスク周りの配線整理にこだわっていた時期がある。
    ケーブルの長さを細かく測って、ぴったりのサイズを注文し、背面のトレーに沿わせて結束バンドで固定する。終わった直後は、工事現場の電線みたいに無駄がなくて、それはもう気持ちよかった。

    けれどその美しさは長続きしない。新しいデバイスを買い足したり、古いものを手放したり、あるいは単に位置を変えたくなったり。そのたびに、あのガチガチに固定した配線が立ちはだかる。いざ引っ張り出そうとすると、最初に描いた「完璧なルート設計」が邪魔をするのだ。

    整理すればするほど、身動きが取りづらくなる――。
    なんだか皮肉な話だが、それが配線整理の現実だった。

    そこで発想を変えてみた。ぴったりサイズのケーブルをやめ、少し長めを選んで余った分はケーブルトレーに押し込む。結束も、ゆるくまとめる程度。遠目から見ればそれなりに整っているし、裏をのぞけば大ざっぱな実態が隠れている。

    でも、この「ほどほど」が驚くほど快適だった。
    新しいガジェットをつなぐときも、古いケーブルを抜くときも、わざわざ結束を外す必要がない。多少の遊びがあるおかげで、変化に柔軟に対応できる。

    思えばデスク環境づくりに“完成形”なんてない。物欲も、好みの変化も、ちょっとした試行錯誤も、いつまでも続く。だからこそ、完成度を突き詰めすぎるより「動かしやすさ」を優先した方が、むしろ長い目で見ればきれいに保てる。

    配線整理は、几帳面さではなく“ゆるさ”で決まる。そう気づいてから、デスクの裏をのぞくたびに気分が軽い。

  • 映像サブスクに慣れて、読書が遠のいた

    映画やドラマのサブスクに慣れてしまったせいで、小説の価格を割高に感じるようになった。
    文庫でさえ2冊も買えば1か月分のサブスク料金を超えるし、単行本なら1冊で余裕で上回る。かつては「小説一冊に千円ちょっとなら安いものだ」と思っていたのに、今は「それで映像作品が100本観られるのに」と考えてしまう。頭でそう思ってしまった瞬間、以前のように気軽にレジへ持っていくことができなくなった。

    デスクワーク中にドラマを“ながら見”できるのも大きい。仕事しながら流しても邪魔にならない作品も多く、気づけば1日で10話くらい観ていることもある。そうなると1か月に100本近く観ている可能性もあるわけで、「費用対時間」という単純な比較では、小説が勝てるはずもない。映像コンテンツが異様に安く感じてしまうのは、そのせいだろう。

    もちろん電子書籍のサブスクもあるにはある。けれど、どうしても「違う」と感じてしまう。自分にとって不要なジャンルが多すぎるし、好きな作家で探してもラインナップに入っていないことが多い。見つからない→がっかりする→別の作家を探す、の繰り返しが地味にストレスになる。気づけば「本来読むつもりのなかった本を、なんとか元を取るために消化している」みたいな状態になってしまって、これもまた小説から距離を置く理由になってしまった。

    振り返れば、ミステリ小説に夢中になっていたころは、数百ページを一気に読み進めて夜更かしすることすら楽しかった。結末までの道のりを自分のペースで辿っていくあの感覚は、映像作品にはないものだ。サブスクで「次のエピソードを自動再生」してくれる便利さに慣れてしまった今、あの“ページをめくる手を止められない夜”をすっかり忘れている。

    だからといって、小説を嫌いになったわけではない。むしろ好きなままだからこそ、読めなくなった現実とのギャップに小さな寂しさがある。映像サブスクのコスパに慣れてしまった自分と、作家にきちんとお金を払いたい気持ち。そのあいだで揺れている。

    今のところ、その距離は縮まりそうにない。けれど、本棚の一角に眠るお気に入りの作家の本を見ると、かつての熱量を思い出すこともある。再びページをめくる日が来るのかどうか、自分でもまだわからない。

  • LEDテープライトの失敗談

    デスクツアーを眺めていると、必ずと言っていいほど目にするのが間接照明。
    モニター裏からふわっと広がる光は、まるで部屋全体をワンランク上に見せる魔法のようで、見ているこちらもつい欲しくなってしまう。2年ほど前、そんな気持ちに背中を押されて、私もLEDテープライトを導入してみた。

    もともと部屋の明るさにはまったく不満はなかった。だから「まあ飾りだよな」と思いつつ、有名ブランドのものが5mで2000円台と意外に安かったこともあり、試しに購入してみたのだ。
    いざ壁側のデスク背面に沿わせて点灯してみると、これが想像以上の仕上がりだった。机の縁から淡くこぼれる光は金額以上に雰囲気があって、作業中の気分も上がる。
    「意味なんてない」と思っていたはずなのに、モニター裏が明るくなるだけで空気が変わる。しかもWi-Fi経由でリモコン操作できたり、IoT機器と連動できたりと、単なる照明以上にガジェット的な楽しさもあった。しばらくは満足感に浸っていたと思う。

    ところが、最初の落とし穴は意外なタイミングでやってきた。
    導入してしばらく経ったある日、イヤホンで音楽を聴いたときに「サーッ」というノイズが乗っているのに気づいたのだ。最初は原因がわからなかったけれど、試しにLEDテープライトの電源を切ったらノイズも消えた。そこからさらに調べると、イヤホンだけではなくスピーカーからも小さなビリビリ音が出ていることが判明。しかもケーブル整理のためにデスク背面を覗き込んだとき、LEDテープライトそのものからもコイル鳴きの音がしていた。

    ノイズに関するトラブルは過去に何度も経験がある。切り分けや改善を試みること自体は嫌いじゃないのだが、「ああ、これは泥沼に入るやつだ」と直感してしまい、結局そのまま使用をやめてしまった。
    もしかしたら個体差もあるだろうし、上手に配線すれば回避できたのかもしれない。でも、もう一度試そうという気力は湧かなかった。

    それ以来、デスクツアーでLEDテープライトをぐるぐる張り巡らせている人を見ると、「ノイズ、気にならないのかな」と思ってしまう。実際のところ、大なり小なり影響は出ているはずで、あとは本人が気にするかどうかの問題なのだろう。
    少なくとも、私には無理だった。部屋は暗くても静かな方がいい。

  • デスクシェルフの流行が落ちついた気がする

    最近、海外のデスクツアー動画を見ていてふと思った。
    あれほど目にしていたデスクシェルフが、なんだか減ってきている気がする。

    数年前は、モニターアームとデスクシェルフの組み合わせが、まるで「デスクおしゃれ化の公式解答」のように広まっていた。
    中でも海外で人気のブランド Grovemade の木製シェルフは象徴的な存在で、あれを置けばデスクが一気に“完成”するという雰囲気があった。

    実用面では確かに優秀だ。ケーブルや小物をシェルフ下に隠せるのは便利だし、ちょっとした高さがつくことでモニターの位置も快適になる。
    ただ一方で、「シェルフがあるから置いてもいいや」という安心感から、ついついガジェットやデコレーションが増えてしまう欠点もあったように思う。

    なぜ減ったのかを考えてみると、いくつか理由が浮かぶ。
    まず、海外のデスク界隈では数年おきに「よりシンプル」な方向へ回帰する流れがある。
    また、テレワーク初期に比べて机上の作業環境を広く使う必要が減った人も多く、スペースを圧迫するシェルフを手放すケースが増えている。
    さらに、モニターのベゼルやスタンドデザインが進化して、そもそも高さ調整やケーブル隠しのためにシェルフを置く必然性が薄れたのも大きい。

    最近はシェルフなしでスッキリ整えたデスクが増え、そのほうがシンプルで洗練されて見える。
    同時に、以前はよく見かけた大きくて主張の強いマイクアームも、最近は卓上マイクスタンドに置き換えられていることが多い。これもデスクの「圧迫感」を減らしている一因だろう。
    同じくGrovemadeの定番だった、大判のウールデスクマットもあまり見かけなくなった。

    そして私はというと——シェルフもマイクアームもウールマットも、すべて憧れていたのに結局買わなかった。理由はシンプル、どれもそれなりに高かったからだ。
    当時は「乗り遅れた」と少し残念に思っていたけれど、こうして流行が落ち着いた今になって、買わずに済んだことにちょっとだけほっとしてる。

  • マイク選び、理想と現実のあいだ

    配信者や動画投稿者のデスクツアー動画を見ていると、つい目が止まるアイテムがある。
    コンデンサーマイクの定番「オーディオテクニカ AT2020」と、ダイナミックマイク界の憧れ「SHURE SM7B」だ。
    正直、私の用途は友人や同僚との通話くらいで、録音作品を公開するわけでもない。それでも、デスクに鎮座するこの二つのマイクは妙に格好よく見える。

    AT2020はまだこの程度の感覚で買う人はいるかもしれない。
    でもSM7Bはどう考えても一般人には高価で、オーバースペックで、かつ性能を最大限に引き出すには口元ギリギリまで近づいて話す必要がある。
    つまり姿勢が固定される。それに慣れていない私にとっては、物理的にも性格的にもハードルが高い。
    だらっと背もたれに寄りかかり、ヘッドセットやUSBコンデンサーマイクで適当に話す生活に慣れた身では、きっと使いこなせないだろう。

    そしてこれらのマイクを選ぶと、XLR接続という別世界が待っている。
    オーディオインターフェースを選び、ケーブルを選び、ゲインを調整し……そう、「沼」だ。
    その一方で、私の用途ならApple純正のEarPodsのマイクでも十分だったりする。実際、通話の相手から音質について指摘されたことはほぼない。

    そう考えると、財布にも所有欲にもそこそこ優しく、使い勝手もUSB接続でシンプルな「AT2020USB-X」が落とし所として現実的だ。
    もちろん、SM7Bを使いこなす日が来れば格好いいのは間違いない。でも、それはもう少し先、もしくは来ない未来かもしれない。
    今の私には、見た目の憧れと日常の快適さ、その中間を取る選択がちょうどいい。

  • エアコンと換気扇、同時使用はもったいない?

    先日、冷房をつけたまま料理をしていて、ふと気になった。
    「このまま換気扇を回したら、せっかく冷やした空気が外に逃げて、電気代が無駄になるんじゃないか?」
    子どものころからなんとなく刷り込まれた“もったいない”感覚が、頭の片隅で警告を鳴らす。

    気になったら試すか調べるしかない。
    とりあえず、自分の部屋で実験してみた。冷房設定は27度、30分ほど安定させたあと、キッチンの換気扇を強で回す。すると数分後、なんとなく足元の涼しさが減った気がする。
    でも、温度計を見ると室温はほぼ変わっていない。これは……気のせい?

    調べてみると、理由はシンプルだった。
    換気扇は部屋の空気を外に排出するが、その分だけ外気をどこからか取り入れる必要がある。つまり、冷房で冷やした空気が出ていき、その代わりに外の暑い空気が入り込む。
    冷房の効率は確かに落ちるけれど、「全部無駄になる」ほどではないらしい。エアコンの能力にもよるが、しっかり回っていれば温度は維持されやすい。逆に小さな部屋や能力ギリギリの冷房だと、効きが落ちるのを体感しやすいそうだ。

    さらに面白かったのは、気密性の低い家だと、換気扇を回さなくても外気は少しずつ入れ替わっているという事実。そう考えると、「換気扇で空気が逃げる=大損」というイメージはちょっと誇張されすぎなのかもしれない。

    もちろん、ずっと回しっぱなしにするなら話は別。
    調理中や匂いが気になるときだけ使い、終わったら切るほうが効率的だろう。
    結果的に、私の中での結論はこうだ――「短時間なら気にせず使っていい」。

    もともと予想はしていた範囲の結果だったけれど、実験と調査で裏付けが取れたことで、妙な罪悪感が消えた。
    今後は、換気扇のスイッチを押す指が少し軽くなりそうだ。

  • アイスの値段と、夏の変化

    ここ数年、コンビニのアイス棚が賑やかになった。
    値段もじわじわ上がっているけれど、それと同時に、味の質も確かにアップしている。
    昔の30円の棒アイスとは違い、濃厚なクリームや果実の酸味、複数の層を楽しめる工夫。高級感が増したアイスは、まさに“大人のデザート”と呼べる仕上がりだ。

    この変化には、猛暑の影響も見逃せない。
    暑さが厳しくなると、冷たくて美味しいものへの需要は自然と高まる。だからこそメーカーも、より手の込んだ商品を投入し、消費者の期待に応えようとしているのだろう。
    さらにSNSが普及したことで、見た目の華やかさや写真映えも重要な要素に。思わずシェアしたくなるアイスは、買う側の購買意欲を刺激する。こうして売上が伸びているのも、時代の波に乗った結果と言える。

    もちろん、昔ながらの安いアイスも根強い人気を保っている。子どもの頃の懐かしい味や、手軽に買える手頃さは、今でも魅力的だ。だが、値段の差が大きくなると、それだけ期待する味わいも変わってくる。
    自分も最近は、150円より300円のアイスに手を伸ばすことが増えた。単純に“贅沢感”というだけでなく、暑さや気分に合わせて、選べる楽しさがあるからだ。

    だからといって、高級志向のアイスがすべてを置き換えるわけではない。むしろ、多様な選択肢が揃っていることが嬉しい。夏の暑さを乗り切るために、ちょっとリッチな味わいを楽しみたい日もあれば、気軽にパクリと食べられるアイスで涼をとりたい日もある。

    価格が上がったからこそ味わえる豊かさもあるし、逆に昔ながらのシンプルさに安心する瞬間もある。
    この夏も、冷たいアイスを手に取るたびに、「今の自分にぴったりの一品」を見つける楽しみが広がっていく。

  • 賞味期限を気にしすぎだと言われて

    冷蔵庫の奥から出てきたヨーグルトを見て、「あ、期限、昨日だったな」と思わず声に出したら、同居人に「それ、賞味期限だから大丈夫だよ」と言われた。
    一瞬の間を置いて、「むしろ今日くらいが食べごろなんじゃない?」と続けられて、なんとなく返事に困った。半笑いで曖昧にうなずいたけれど、結局そのヨーグルトは食べなかった。

    たしかに、「賞味期限と消費期限は違う」というのは、もはや一般常識に近い。
    「消費期限=安全の期限」、「賞味期限=美味しさの目安」と、いくつものメディアや啓発キャンペーンが繰り返し伝えてきた。そのおかげで、少し期限が過ぎたくらいでは過敏にならなくてもいい、という空気は以前より広がっていると思う。

    ただ、そうやって「気にしすぎなくていいよ」と言ってくれる人の多くが、「じゃあ、どのくらいまで大丈夫なのか?」という問いには、あまり答えてくれない。
    一日? 三日? 一週間? 感覚で言えば「まあ、しばらくはいけるでしょ」といったところかもしれないけれど、その“しばらく”の長さは人によってずいぶん違う。

    じっさい、賞味期限を過ぎたらすぐに味や安全性が損なわれる食品もあれば、冷蔵しておけば数ヶ月変わらないものもある。開封済みか未開封か、保存状態はどうか、工場出荷時の菌数がどのくらいか――そういった違いをすべて把握して「これは大丈夫」と判断するのは、ふだん食品業界で働いている人でも難しいんじゃないかと思う。

    そもそも、日付を見て「そろそろ食べきろう」と意識するだけで、大半の食品は無駄なく食べきれるし、体調を崩すリスクも下がる。それって、けっこう低コストで得られる安心なんじゃないか。

    もちろん、「多少の期限切れなんて気にしない」という人を否定したいわけではない。
    でも、賞味期限を守ろうとする人が、過剰に神経質なわけでもない。むしろ、わかりにくい“境界”をあえて曖昧にせずに、淡々と線引きしているだけとも言える。

    すこし乾いたパンや、色が薄くなったスープでも、「まあいいか」と済ませることはできる。でも、「どうしても食べなきゃ困る」という状況でもないなら、たとえ昨日が期限だったヨーグルトでも、そっと手放すほうを選びたくなる。

    そういう小さな判断をいちいち重ねながら、自分なりの体調管理をしている。
    それを「もったいない」と言われても、たぶん、また同じようにする気がする。

  • ベランダの温度を考えた夏

    エアコンが壊れたのは、7月の終わりだった。
    午後3時、部屋の温度はすでに32度を超えていて、いつも通りリモコンを押したのに、ぴくりとも動かない。正確には、室内機のランプは点いた。でも、風が出ない。いつまで経っても、何も冷えない。
    外に出てみると、室外機が動いていなかった。音がしない。表面に触れると、熱がこもっているのがわかった。

    修理業者に来てもらうまでに、3日かかった。
    「この時期、室外機の故障、めちゃくちゃ多いんですよ」と、作業着の人が言った。
    熱波の影響で、放熱しきれずに停止するケースが増えているのだという。とくに40度を超える日が続くと、地面の照り返しも加わって、室外機の周辺は想像以上に過酷な温度になるらしい。

    「43度とかになると、限界ですね。人間と同じで、動けなくなります」

    その言い回しが、やけに印象に残った。
    そういえばこれまで、室外機のことなんて、ほとんど気にしたことがなかった。エアコンの効き具合に不満を覚えても、真っ先に疑うのはリモコンや室内機のほうで、外に置かれた金属の箱については、何かを工夫しようとすら思わなかった。

    業者さんに言われて、室外機の周りに置いていた植木鉢を少しだけ移動させた。
    空気の流れを遮っていた可能性があると言われて、少し驚いた。直射日光を防ぐために、簡易的な日よけも設置してみた。効果のほどはわからないけれど、「なにもしないよりは」という気持ちだけでも、見方が変わる。

    この夏になってようやく、ベランダの温度のことを真剣に考えるようになった。
    そこに熱がこもっていること、熱が逃げにくいこと、風が滞っていること――今まではなんとなく目に入っても、意識には残っていなかった。

    私たちはエアコンに頼らずには暮らしにくくなっていて、それを支える仕組みには、目が向きにくい部分も多い。
    壊れて初めて気づくことがある――というのは、よくある話だ。でも、気づいたあとにどうするかは、少しずつでも選べる気がする。

    今年は、早朝と夕方にベランダに水をまくようになった。
    それだけで気温が劇的に下がるわけではないけれど、あの場所の熱が少しでも和らげば、という気持ちはある。
    そう思いながら、今日もじょうろに水を入れて、静かにまいている。

  • カーテンで暑さに抗う

    夏の午後、部屋の中がじんわりと暑い。エアコンは効いているはずなのに、なぜか空気がだるい。手をかざしてみると、窓際のカーテンの向こうから、もわっとした熱気が伝わってくる。
    ああ、これはもう、カーテンの限界かもしれない――そう思ったのが、断熱・遮熱カーテンを探し始めたきっかけだった。

    こういう機能性カーテンは、調べはじめると沼のように深い。
    「遮光」「遮熱」「断熱」それぞれが微妙に違っていて、単なる色の濃さでは判断できない。裏地が白いもの、アルミコーティングがされているもの、生地の厚みで勝負しているもの。結局のところ、何を優先すべきかは、暮らしている環境次第なのだろう。

    私の部屋は南向きで、昼を過ぎると日差しがどんどん鋭くなる。とくに夏場は、窓ガラス越しに太陽と向き合っているようなものだ。
    カーテン一枚でどこまで防げるのか、少し半信半疑ではあったけれど、それでも何もしないよりはいいと思い、評判のよさそうなものを一つ選んだ。

    届いたカーテンは、思っていたよりも軽く、手触りはさらっとしていた。見た目の印象は、どちらかといえば“地味”。でも、窓に吊るしてみると、それまでのふつうの布よりも、明らかに熱のこもり方が違う。
    完全に防げるわけではない。けれど、空気がひと呼吸、穏やかになったような感触がある。

    こういう小さな改善は、体感としては微妙なことが多い。
    温度が1〜2度下がったところで、劇的に快適になるわけではない。けれど、その「1〜2度」が、作業に集中できるか、汗ばんで落ち着かないかの境界線だったりする。
    そしてなにより、「できるだけ工夫してみた」という気持ちが、自分にとっての安心につながっている気がする。

    もちろん、カーテンひとつで夏が変わるわけじゃない。
    もっと効果的な方法もあるのかもしれないし、気候変動という大きな流れに対しては、無力に思える瞬間もある。
    でも、それでも窓の向こうにそっと抵抗を差し出すような気持ちで、カーテンを選んだ日を、私はたぶん忘れないと思う。

    あとは、秋が来るのを静かに待つだけだ。

  • マイクは気に入ってる、けれど

    通話用に、新しくUSBマイクを買った。価格は3,000円。正直、期待していなかった。
    会議で声が聞き取りやすければいい。内蔵マイクより少しマシになれば、それで十分だと思っていた。

    ところが使ってみると、意外と音がいい。
    ざらつきもなく、くぐもりもなく、ちゃんと人の声らしく聞こえる。思わず、テスト録音を何度も再生してしまった。
    「いや、これ……ちゃんとしてるな」と。値段を知ってる自分のほうが疑ってかかっていたのかもしれない。

    それでも、ひとつ気になるのが三脚部分だった。
    軽くて細くて、どこか頼りない。グラグラするほどではないけれど、目に入るたびに“付属品”感が抜けない。
    性能とは無関係なはずなのに、その安っぽさが、どこか全体の印象を下げてしまう。

    そこで、卓上マイクスタンドを買い足した。
    1,500円。鉄製でずっしりしていて、見た目にも落ち着きがある。これに付け替えただけで、同じマイクが少し上質に見えるようになった。不思議なもので、音は変わっていないのに、音の“信頼感”みたいなものまで上がった気がする。

    ただ、ふと思う。
    はじめから4,500円のマイクを選んでいたら、最初からスタンドも見た目も込みで、もっとバランスがよかったのかもしれない。
    そのほうが手間も省けたし、買い足しの時間や気付きも必要なかった。

    でも、いま不満かというと、まったくそんなことはない。むしろ、この「ちょっとずつ整えていく感じ」が、どこか楽しかった。
    最初の軽さ、音の意外性、スタンドを変えて生まれた見た目の安定感。それぞれに段階があって、その都度「これでいいかも」と思えた。
    最初から完成されたものを買っていたら、こういう小さな納得は味わえなかったかもしれない。

    手頃なものを買って、あとから整えていく。
    それは遠回りのようでいて、自分の「ちょうどいい」を探すための近道だったりもする。
    そう思うと、いま机の上にあるこのマイクにも、なんとなく愛着が湧いてくる。

  • 空気の入れ替えを、思考の区切りに

    朝の仕事部屋に入ったとき、かすかにこもった空気の匂いに気づくことがある。昨日閉めたままの窓。止まったままの空気。少しだけ温度がこもっていて、声を出す前の喉のように、どこか曇っている。

    換気しなきゃ、と思う。
    けれど手はマウスに伸びてしまう。ちょっとだけ……のつもりで画面を開くと、そのまま数時間が経ってしまうこともある。気づけば昼。空気も思考も、よどんだまま。

    それでいて、ふいに換気をしたときの変化には、いつも驚く。
    窓を開けて、風が入り、カーテンがゆっくりと揺れる。部屋の中の空気が、ぬるい水から新しい川の流れに変わるように、すーっと動き出す。
    その瞬間、さっきまで重く感じていたタスクにも、なぜかちょっとだけ向き合える気持ちになるから不思議だ。

    空気の入れ替えは、思考の入れ替えにもなる。
    やるべきことが多すぎて整理できないときほど、換気のひと手間が、頭の中に余白を作ってくれる。ほんの数分で終わる行動なのに、それが自分の集中力を支えていることに、最近ようやく気づいた。

    そもそも「換気」という言葉は、なんだか少し控えめな響きがある。
    掃除や整理整頓のように、目に見えて劇的に変わるものではない。けれど、日常の中でじわじわと効いてくるものの代表格だと思う。
    水が透明であるように、空気が澄んでいることには、意識を向けづらい。けれど、澱んだときにだけわかる。ああ、入れ替えるって、大事だな、と。

    そして、換気のたびに思い出すのは、子どものころの夏休みの記憶だ。
    朝からテレビゲームに夢中になっていると、母がふいに窓を開けて、「ちょっと空気、入れ替えよか」と言ってくる。外の熱気がぶわっと部屋に入り、せっかく冷えた空気が逃げていくのが、子ども心には少し不満だった。

    けれどいま、あの「空気を入れ替えるよ」が、家の中の時間を整える一種のリセットだったのだとわかる。何かが変わるわけじゃない。けれど、それが区切りになる。

    仕事部屋の空気を入れ替えるという行為も、きっとそれに似ている。
    大げさな意味づけは必要ない。ただ、こもった時間に一度、風を通す。
    そうすると、部屋も頭も、少しだけ前を向ける気がする。

  • お菓子をやめて、肉を選ぶ

    スーパーでふと、お菓子コーナーに足を止めた。
    棚には色とりどりのパッケージが並び、期間限定の味や、ちょっと贅沢そうな小袋が目を引く。昔はよく買っていた。ポテトチップスとか、チョコレートとか。買い物の最後に、なんとなくカゴに放り込むのが癖になっていた。

    でも最近は、その手が止まる。

    「150円か……」
    そう思って立ち去ることが増えた。たった150円。けれどこの150円、なんだか別の使い方をしたほうが満足感が大きい気がする。

    たとえば、夕食の肉をちょっとだけいいものにするとか。
    普段は安売りの鶏むね肉か豚こまだけど、そこに150円足すだけで、質のいい国産の牛切り落としに手が届く。脂の入り方も、焼いたときの香りもまったく違う。
    同じような手間で、食べたあとの充足感がぐっと変わる。

    お菓子が嫌いになったわけじゃない。ただ、満たされ方が変わったのだと思う。

    昔は「ちょっとつまみたい」とか「なんか食べたい」という気持ちにすぐ応えてくれるのが、お菓子だった。手軽で、味がはっきりしていて、頭が疲れているときには特にありがたかった。
    けれど今は、その一時の満足感よりも、全体として「いい食事だった」と思える晩ごはんのほうが、体にもしっくりくる。そういう感覚になってきた。

    外食でも同じようなことを感じる。500円の定食より、650円の定食のほうが、だいたいすべてがちょっとずつ丁寧で、結果として満足感が長持ちする。
    この“ちょっとの差”が、歳を重ねるとともに、どんどん重要になってくる。量より質、というとありきたりだけれど、ほんとうにそう思うようになった。

    お菓子を食べる頻度が減ったことで、なんとなく家の台所も、冷蔵庫も落ち着いてきた。食べものの買い方が整ってきたのかもしれない。

    たまに、ものすごく久しぶりにポテトチップスを食べることがある。するとそれはそれでおいしい。でも「ああ、これで150円か」とも思う。そのあと、次はしばらくいいかな、という気持ちになる。

    お菓子のかわりに、ちょっといい肉を買う。
    その選択が自然になったいま、たぶん私は前よりも、自分の食欲といい距離で付き合えている。

  • バッテリーが熱を持つとき

    街のあちこちで、電動自転車を見かけるようになった。保育園の送り迎えも、買い物の帰り道も、みんな当たり前のようにまたがっている。
    けれどこの夏のように照りつける日差しの中では、その「当たり前」がふと気にかかる。

    自転車のフレームに取り付けられた黒いバッテリーが、じわじわと熱を溜め込んでいるように見える。触れれば火傷しそうなほどの気温のなかで、これがずっと直射日光にさらされているのは大丈夫なんだろうか――そんな疑問が、頭をよぎる。

    最近、バッテリーにまつわる事故のニュースをよく見かける。発火や爆発という最悪のケースもあるけれど、そこまでいかなくても、「異常に熱くなる」というだけで、かなりのストレスだ。
    不具合かもしれない。暑さのせいかもしれない。どちらにしても、自分の手の中にあるものが、静かに熱を帯びるという現象には、どうしても不安がつきまとう。

    とはいえ、バッテリーはあまりに身近になった。スマホもPCも、イヤホンもスピーカーも。
    最近では、「有線接続が基本ですよ」と謳っている製品でさえ、「非常時のためにバッテリー内蔵です」と付け足されていることがある。
    親切心なのかもしれない。でもその機能を「無効にする」選択肢が用意されていないのは、ちょっと困る。

    実際、私が使っているスピーカーにも、そういう“おまけのバッテリー”がついていた。普段は据え置きで使っていて、電源ケーブルはずっと挿しっぱなしだ。モバイル用途で使う予定もないし、バッテリーの状態を把握する手段もない。
    なのに、内部には熱を溜める可能性のある部品が、ひっそりと組み込まれている。

    もちろん、技術的には問題ないのかもしれない。発火温度にはまだ余裕があるのかもしれない。
    それでも、「知らないうちに高温になっているかもしれない」という事実だけで、どこか落ち着かない。

    暑さは、体だけでなく、物にも負荷をかける。
    だからこそ、熱を抱えたものにもう少しだけ慎重になっていたい――そんなふうに思うようになったこの頃。
    便利さの裏に潜む熱を、日陰に置くくらいの気持ちで扱えたら、少しだけ安心していられる気がする。

  • 音を届ける道具、音を聴く道具

    録音も配信もしていないのに、ずっとオーディオインターフェースを使っていた。理由は単純で、それしか知らなかったからだ。USBでつないで、スピーカーを鳴らせて、マイクも挿せる。最初から全部できるのだから、選び直す理由がなかった。

    でもある日、ふと思った。「これ、本当に“聴く”ために作られた機械なんだろうか」と。

    ボリュームを少し上げると、スピーカーの背後でノイズがふっと息を吐く。ヘッドフォンに切り替えると、出力が妙に控えめで、音場も狭く感じる。決して悪くはないのだけれど、“良い”とも言い切れない。
    その違和感は、音の善し悪しというより、「この箱が何を主役に設計されたのか」という方向の問題だった。

    オーディオインターフェースは、どちらかというと“届ける”ための道具だ。声を録る、音を混ぜる、リアルタイムで制御する。その延長でスピーカーに出せるようにはなっているけれど、音楽を聴いて気持ちよくなるための細部には、そこまで気が配られていないことも多い。

    それに比べて、USB DACは静かだ。機能は少ないが、そのぶん徹底して“出す音”に集中している。ノブをひねったときの手応え、無音の背景、左右の広がり、ほんの一瞬の響き。使い道は絞られているけれど、そのひとつの目的に、驚くほど忠実だ。

    そう考えると、今まで“便利なもの”に寄りかかって、肝心の「音を聴くこと」がおざなりになっていたのかもしれない。もちろん、オーディオインターフェースにも役割はあるし、手放す理由にはならない。ただ、用途に合わせて道具を選ぶという当たり前のことを、どこかで見失っていたのかもしれない。

    新しく迎えた小さなDACは、できることが本当に少ない。でも、音がきちんと聴こえる。それだけで、机のまわりが静かに整っていく感じがするのだ。

    多機能を手放してはじめて、自分が何を求めていたかがはっきりすることもある。音のない時間さえ、少しだけ豊かに思えてくるから不思議だ。

  • 二台目のモバイルモニター

    出先で使う用に、モバイルモニターを買い足そうと思った。すでに一台、安価なモデルを持っているのだけれど、最近どうにも不満が募ってきた。画面がやや青白く、文字の輪郭が滲んで見える。最初は「こんなものか」と思っていたのに、一度気づくともう戻れない。

    スペック表とレビューを行き来するうちに、「これなら間違いなさそうだ」と思える製品が見つかった。解像度も、色の正確さも、レビューの語り口までもが落ち着いていて、どこか信頼できる雰囲気がある。必要かと問われれば、いま手元にモニターはある。でも、満足しているかといえば、たぶん違う。

    ガジェットというのは、つくづく感情の買い物だと思う。用途を洗い出し、理性で整理したつもりになっていても、最後のひと押しはたいてい「気持ち」だ。「これなら長く使えそう」と思えるか。所有していて心地よいか。その感覚がちゃんとあるかどうかで、あとからの満足度がまるで違ってくる。

    「二台目」が難しいのは、経験があるぶん冷静になりすぎるからだ。初めてのときは知らないことだらけで、とにかく動けば感動があった。ところが二台目は、知ってしまっている。安物の落とし穴も、過剰な期待の行き先も。それでもやっぱり、もう少し良いものが欲しくなる。今度こそ、妥協しない一台を、と。

    そして、それが最後の一台になるとも限らない。レビューを読み、動画を見て、スペックを比較する夜の時間がまた始まる。それでも、そんな遠回りの中にしか、ほんとうに納得のいく選択肢は現れないのかもしれない。

    結局、その製品は今は在庫切れだった。しばらくは買えそうにない。それでも不思議と、焦りはなかった。もう少しだけ、この「まだ選んでいない時間」を味わっていたい、そんな気持ちさえある。思いがけず愛着が湧いてきた今の一台にも、もう少しだけ寄り添ってみようと思った。

  • Mac mini をどこに置くか

    Mac mini をどこに置くか。それだけのことに、どうしてこんなに時間がかかるのか。

    と、自分でも呆れながら、数ヶ月にわたって悩んでいた。

    発端は、デスクまわりの配線を見直したときだった。スピーカーやモニターの裏にケーブルを通し、USBハブや電源アダプタを棚の裏側に隠す。こうして整理されたデスクに、Mac mini だけがどこか所在なく居座っていた。何かいい固定方法があるのでは、と思ったのが始まりだった。

    定番は、デスクの裏にマウントして「浮かせる」設置方法だ。調べてみると、Mac Studio 用のマウントプレートを流用している人も多い。サイズに余裕があり、排熱にも配慮しやすそうだ。ただ、デスクにネジ穴を空ける必要がある。DIYが苦手なわけではないけれど、位置を決めきれない自分にはハードルが高かった。

    クランプ式の棚も検討した。ところが意外と選択肢が少ない。そもそも「クランプ棚」というジャンルが確立されていないらしく、用途もサイズもバラバラだ。VESAマウントや PC ホルダーなど専用品は多いのに、なぜかこういう汎用的なもののほうが見つからない。

    そんなとき、ふと「いっそ“浮かせる”発想をやめてみてもいいのでは」と思った。

    机と一体化させるのではなく、机の下にそっと置く方法。薄型のサイドテーブルやスツールを探してみると、案外すっきり収まりそうなものがいくつも見つかる。しかも、どれも手頃でデザインも悪くない。

    「隠す」「固定する」という前提から離れると、選択肢は急に広がる。もちろん、ホコリや排熱への配慮は必要だけれど、それもまた一体化と同じくらい慎重に検討できることだ。

    整然とした環境を目指していたはずが、いつの間にか「格納」や「収納」という言葉に縛られていたのかもしれない。Mac mini は引き出しの中じゃなく、すこし手前に置かれていてもいい。目に入る場所にあるからこそ、気づくこともある。

    そんなふうに考えを切り替えられたのは、回り道のおかげだった気もする。

  • アームカバーをめぐる逡巡

    昼にちょっとだけ自転車で出かけた。ほんの15分。近所の文具店に封筒を買いに行っただけなのに、帰ってきたら腕が真っ赤になっていた。

    肌が焼けている。ひりひりする。日差しに負けた、と思う。

    これまで夏の陽射しにそれなりに慣れてきたつもりでいた。炎天下のプールや部活、通学路の照り返し。そういう「夏」はもうとっくに通り過ぎてきたのに、今さらこんなに焼けるなんて、少し驚いた。

    翌日、アームカバーを検索した。男性用、UVカット、冷感。いろんなタグをつけて調べながら、でもどこかで「いやいや」と思っている自分がいる。「アームカバーなんて、ちょっとやりすぎじゃないか」「日傘男子が許される時代でも、これはまだ早いんじゃないか」と。

    たしかに、街中でそれを着けている人をあまり見かけない。特に男性では。だから、見た目がどうこうというより、「誰もやっていない」ことの抵抗感がある。でも、昔は日傘だってそうだった。

    思い返すと、あの頃は「男だから」「女だから」という分類が、今よりずっと当たり前のように日常に溶け込んでいた気がする。

    何を使うか、どう振る舞うかに、無言のラインがあった。誰が決めたわけでもないけれど、それを越えるのはちょっとだけ勇気がいった。

    でも、ここ数年の日差しは、もはやそういうちいさな躊躇に構ってはいられないほどに強く、容赦がない。紫外線の強さは年々上がっているらしい。季節は「夏」ではなく「灼熱期」になりつつあるのだという。

    それでも、恥ずかしさがほんの少しだけ勝ってしまう。けれど、また出かけるときには、同じように日焼けをして帰ってきて、また同じことを思うのだろう。

    「着けておけばよかった」と。

    たぶん近いうちに、試しにひとつ買ってみると思う。黒のシンプルなやつ。見た目はどうでもいい。涼しくて、肌を守れればそれでいい。誰かに何か言われたとしても、きっとすぐに慣れる。

    こうして少しずつ、昔の「当たり前」は書き換えられていくんだろう。季節が変わるように、常識も変わる。変えるのはきっと、ひとりひとりのちいさな選択だ。

    腕のひりひりはまだ残っている。今度は忘れずに、ちゃんと覆って出かけようと思う。

  • セレクターか、セレクタか

    HDMIセレクターを買おうとして、検索窓に「HDMIセレクタ」と打ち込んだとき、ふと手が止まった。

    「…あれ、伸ばし棒、いるんだっけ?」

    自分の中ではもうずっと「セレクタ」と書いてきた。語尾を伸ばさないほうがなんとなくしっくりくる。
    でも一般的には「セレクター」のほうが正しい、ということもちゃんとわかっている。商品名でも記事でも、伸ばし棒付きがほとんどだ。
    それでも、意識しないと「セレクタ」と書いてしまう。これはもう癖というより、体に染みついた反応だ。

    思い返すと、「ミステリ」という言い方にも同じような感覚がある。「ミステリー」とは書かない。本格ミステリが好きで、小説の背表紙にそう書いてあったから、そのまま覚えた。
    言葉の使い方は、正しさよりも最初に出会ったかたちに引っ張られるのかもしれない。

    それに、「セレクター」ってなんだか間延びして聞こえる気もする。「セレクタ」のほうが歯切れがよくて、語感が軽快だ。
    たとえば「モニタ」「コネクタ」「アダプタ」なんかもそう。昔のパソコン雑誌や説明書では、伸ばし棒が省略されることが多かった。
    紙幅の制限か、ただの慣例かはわからないけれど、そういう表記に親しんで育った世代には、「省略形のほうが自然」というケースも案外ある。

    あるいは、打ちやすさの問題かもしれない。Macのキーボードで「ー」はシフト+け。ちょっとだけ指の動きが遠い。無意識のうちに、打たなくても通じるなら省いてしまおう、という判断が働いているのかもしれない。

    言葉はおもしろい。言語学や国語辞典を持ち出さなくても、ふだん自分がどんな言い回しをしているかを眺めるだけで、そこに自分の過去や趣味や癖がにじんでいるのがわかる。
    正しいかどうかよりも、どのタイミングで、どういう文脈でその言葉と出会ったか。
    そのほうが、ずっと自分の言葉の形を決めている。

    「HDMIセレクタ」と書いたところで、検索はちゃんとヒットする。意味も通じる。けれど、誰かに説明するときは一応「セレクター」と書き直す。
    このちいさな揺れが、たぶんずっと続くんだろう。