セレクターか、セレクタか

HDMIセレクターを買おうとして、検索窓に「HDMIセレクタ」と打ち込んだとき、ふと手が止まった。

「…あれ、伸ばし棒、いるんだっけ?」

自分の中ではもうずっと「セレクタ」と書いてきた。語尾を伸ばさないほうがなんとなくしっくりくる。
でも一般的には「セレクター」のほうが正しい、ということもちゃんとわかっている。商品名でも記事でも、伸ばし棒付きがほとんどだ。
それでも、意識しないと「セレクタ」と書いてしまう。これはもう癖というより、体に染みついた反応だ。

思い返すと、「ミステリ」という言い方にも同じような感覚がある。「ミステリー」とは書かない。本格ミステリが好きで、小説の背表紙にそう書いてあったから、そのまま覚えた。
言葉の使い方は、正しさよりも最初に出会ったかたちに引っ張られるのかもしれない。

それに、「セレクター」ってなんだか間延びして聞こえる気もする。「セレクタ」のほうが歯切れがよくて、語感が軽快だ。
たとえば「モニタ」「コネクタ」「アダプタ」なんかもそう。昔のパソコン雑誌や説明書では、伸ばし棒が省略されることが多かった。
紙幅の制限か、ただの慣例かはわからないけれど、そういう表記に親しんで育った世代には、「省略形のほうが自然」というケースも案外ある。

あるいは、打ちやすさの問題かもしれない。Macのキーボードで「ー」はシフト+け。ちょっとだけ指の動きが遠い。無意識のうちに、打たなくても通じるなら省いてしまおう、という判断が働いているのかもしれない。

言葉はおもしろい。言語学や国語辞典を持ち出さなくても、ふだん自分がどんな言い回しをしているかを眺めるだけで、そこに自分の過去や趣味や癖がにじんでいるのがわかる。
正しいかどうかよりも、どのタイミングで、どういう文脈でその言葉と出会ったか。
そのほうが、ずっと自分の言葉の形を決めている。

「HDMIセレクタ」と書いたところで、検索はちゃんとヒットする。意味も通じる。けれど、誰かに説明するときは一応「セレクター」と書き直す。
このちいさな揺れが、たぶんずっと続くんだろう。