ちゃっかりと、ずる賢い

先日の「野暮と野暮ったい」と似てるようで微妙に違う話。

会話を聞いていて、「あの人ってちゃっかりしてるよね」と評しているのを耳にした。そこまではよくある言い方だが、その後に続いた言葉が「ほんと、ずる賢いんだから」で、ちょっと立ち止まってしまった。

「ちゃっかり」と「ずる賢い」。意味が近いようで、どこか違う。前者には、少しあざとくはあるけれど抜け目のなさや要領のよさがにじむ。どこか憎めないニュアンスを含んでいて、「ちゃっかりしてるね」と言われても、むしろ褒め言葉として受け取る人もいるかもしれない。

一方「ずる賢い」には、もっと計算高さや腹黒さが漂う。自分の得のために人をうまく利用する、そんな一段ネガティブな響きがつきまとう。どちらも似た領域を指しているのに、印象はだいぶ違う。

こういう言葉の「ズレ」に気づくと、頭の中で他の組み合わせが浮かんでくる。たとえば「けち」と「倹約家」。どちらもお金を大切にすることを表すけれど、前者は出し惜しみのニュアンスが強く、後者はむしろ美徳のように響く。同じ行動でもラベルを変えただけで評価が逆転するのだから、言葉の選び方は恐ろしい。

あるいは「のんびり」と「ぐうたら」。どちらも動きの遅さを表すのに、一方は休日に欲しい落ち着きを感じさせ、もう一方は怠け癖のように聞こえる。ちょっとした言葉の角度の違いで、人の印象はまるで別物になる。

もちろん、日常会話の中ではそんなに厳密に切り分ける必要はないだろう。「ちゃっかり」と「ずる賢い」を並べて言った人だって、そこまで考え込んでいたわけではないはずだ。ただ、そういう曖昧な混ざり合いこそが、口語の豊かさなのかもしれない。

けれど私は、こういうちょっとした言葉の行き違いに出会うたびに、心の中でそっと仕分けをしてしまう。「ちゃっかり」と「ずる賢い」は似ているようで、やっぱり別の棚に置きたい。意味を調べたり、例えを探したりしているうちに、いつの間にかそれ自体がちょっとした楽しみになっている。